「馬場歩きしますか」
「いくー」
とある日の早稲田大学である。私は馬場歩き、ひいてはキャンパス言葉を調べている。馬場歩きとはなんであるか。マイルストーンに馬場歩きはこう書かれている。
『早大生にとっては馴染みのある言葉。早稲田大学の本キャンや文キャンから高田場駅まで直接歩くこと。』
確かにそうだ、しかしあの馬場歩きの豊かさを示せてはいない。馬場歩きについて考えてみよう。
キャンパス言葉は、早稲田大学の中で特有の熱を持って話されている。私は言葉というのは寿命があって、人々が言葉を受け渡しするたびに、語の持つ輝きが失われていくものだと思う。だが大学という場では、人が入れ替わっていくので、話し手や受け取り手が常に言葉の輝きを感じることができる。キャンパス言葉はきっと、常に生まれたての言葉なのだ。
馬場歩きは便利だ。馬場歩きは愛と承認の言葉だ。初対面で馬場まで歩くことはしない。馬場歩きをするためにはそれなりに仲が良くなければならないし、もっと一緒にいたいという気持ちがなくてはならない。こんなにもロマンテックな言葉であるのに、まるであたりまえの日常であるかのように振る舞っている。これは明らかにキャンパス言葉の利点だ。こんなにも奥深い言葉を簡単に使えるからだ。夏目漱石が早稲田生だったら、「月が綺麗ですね」ではなく「馬場歩き行かない?」というだろう。
また、馬場歩きは自分が早稲田生である事を自覚させる。馬場歩きは伝統であり、顔の知らない先輩から後輩まで行うだろう。自身が早稲田から承認されている事を示し、愛を示す言葉でもあるのだ。
こんなにも美しい言葉を、我々は日々何気なく使っている。背後と前方にある歴史を自覚しながら。 キャンパス言葉のあのワクワクした言葉の広がりはこうしたことに由来するのだろう。
二階堂友大
